人生の意味を考えるということ
人生の意味とはなんだろう。何のために生きているのだろうか。
この疑問に答えるのが哲学であり、アリストテレスが生きていたときから、古代ローマの時代から人間は考えて答えを出そうとしてきた。
答えをだそうというよりは、答えが出ないことを知りつつも、議論を深めることに時間を使ってきた。
小さい頃から、「人生の意味」を考える意味が分からなかった。
そんな難しいことを考えなくても、人生は勝手に進んでいく。人間は年を取っていく。
だから、それだったら楽しく時間を過ごして笑っていたほうが良いのではないか。
ずっとそんなふうに思っていた。
恐らく、自分の周りでは親族でも友人でも「死んだ」人がいなくて、死ぬということがまるでドラマやマンガの世界の中のことのように思えていた気がする。
これは本当に幸せなことだけど。
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考えて答えが出ないことを考える意味
当たり前だけど、生きるための意味なんて考えても答えが出ない。
人によってそれぞれだし、一人の人であっても考える時期によってもまるで違う答えになるはず。
そうならば、一体生きる意味を考えることになんの意味があるのだろう。
笑いながら生きれるだけで、自分が幸せに生きれるだけで十分に意味があるはずだ。
何かに挫折したり、難しい局面で逃げ出したいと思った時には、なんのために生きてるんだろうと思うことがある。
あるいは、本当に楽しかったり、充実感に満ち溢れている瞬間を感じられると、このために生きてきたんだろうと思うこともある。
でもそれは一瞬の儚い夢みたいなもので、その中で自分の人生に普遍的に意味を感じられることはないと思う。
芸術家や作家のような人たちは、自分の考えやアイディアをなんとかして世界に伝えたい、広めたい、あるいは理解してほしいと悩みながら活動をしている。
常に社会と対峙をする難しい仕事・生き方であり、この道を選ぶならば、必然的に何のために生きているのかとふと立ち止まることも多いだろう。
でも日々、仕事をして忙しい毎日を送っている社会人はきっとそんな余裕もない。
だけど、「生きる意味を考えながら生きなければいけないのでは」とある種の強迫観念にかられている人は少なくないのではと思う。
「宗教」がない日本だからなのか
宗教心が弱いと言われる日本だから、自分が日本人だからこのようなことを考えるのかなと思うときもある。
深い理解はないけれども、キリスト教のように神が自分の行いを見ていて、常に善行を積んでいくことが必要というのであれば、善い人生をおくることそのものが生きる意味となるかもしれない。
もちろん、日本で仏教を厚く信仰している人だって同じように仏教の教えがそのまま生きる意味と考えている人もいるだろう。
だけど自分はそうではない。
宗教的には仏教徒だけど、一般的な日本人のように、年末年始やお盆などイベント毎がない限りは、神社やお寺に向かうことはない。
日常生活の中で、神様を意識することもない。
だから、生きる意味を求めるのであれば、「自分自身でゼロから決める」必要がある。
だからこそ、簡単なことではない。
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3分考えてみえないなら見つからない
3分間生きる意味を考えてみて、見つからないなら、3時間考えても3日考えたって生きる意味は今は見つからない。
きっと内面の中からひねり出すのではなく、外的な要因があって初めて自分はこのために生きていたんだと気づく時がくるはず。
「生きる意味って一体なんだんだろう」と考えて悩んでいる人がいるなら、そんなことに悩む必要はないといいたい。
「生きる意味なんて知らない」と胸を張ったっていいと思う。
考えても答えが見えないことにとらわれるよりは、考えて答えが見えることを考えたほうが意味があるのと思いたい。